思春期の乙女みたいに、胸がドキドキと高鳴っている。
時刻はすでに十四時を回っていた。
暖簾をくぐり、戸を開けて中に入る。
少し暗い店内。先客は男性が一人。計算通りだ。
私は隅の四人掛けの席に腰をおろし、メニューを手に取った。
<これが噂の……>
視線の先には「山かけ」と書かれた文字列があった。その脇に赤い波線が引かれている。
南国市岡豊にある「そば処・㐂太八(喜太八)」の「山かけ」が美味しいと書いてあるブログを読んだのは随分前だった。
そのブログを書いている方は「㐂太八」へ行くと、決まって「山かけ」を食べているようだった。
『何度もリピートしてしまうほどの"山かけ"』
興味があった。
だが私は「農業界のうどん野郎」だ。
そう簡単に蕎麦に手を出すわけにいかない。
我がホームグラウンドの高知で蕎麦屋に入るということ。
それは読売巨人のファンが東京ドームで行われる阪神戦に、阪神ファンのフリをしてレフトスタンドに紛れ込むくらいの勇気がいる。
日頃から、「むしろ、ぶっかけうどんをぶっかけられたい!」などと、トチ狂った発言をしている私が蕎麦を食べる。
その行為に、どれほどの後ろめたさを感じるか、おわかりいただけるだろうか。
マゴマゴしているあいだに、気が付けば数年の月日が流れていた。
ある日、私はついに腹を括った。
「㐂太八」の、噂の「山かけ」を、このまま食べずにいたら人生の九割を損すると悟ったのだ。
何にだって言えることだが、食わず嫌いは良くない。
おそらく昼時を外せば客が減る。人目に付かない。
サッと食べて、サッと帰れば、気付かれない。
阪神ファンの中に巨人ファンが紛れ込んでいたとしてもだ。
先客が蕎麦をすする音を背中で聞きながら待っていると、店のおばちゃんが持ってきてくれた。噂の「山かけ」だった。
大量の山芋とろろが、丼の上面を埋め尽くしている。
その真ん中に卵黄。大きい。
<冷たい……!>
食べ始めて気が付いた。つゆが冷たいのだ。
メニューをよく見てみると、たしかに「山かけ」は"冷しもの"に分類されている。
うどんで「山かけ」というと、大抵は温かい状態で提供されるので、すっかり「山かけ=温かいもの」と思い込んでいた。
<いっぱい山芋とろろが入ってる……!>
麺、一に対して、山芋、三くらいの割合で絡めて食べても、最後まで絡め続けることができるほど、山芋とろろの量が多い。<ありがたいっ!>
千円という値段に怯んで「大盛」にはできなかった。
昼ごはんに千円超えはつらい。
それでもお腹は程よく張ってきた。
「ちょっと足らんばぁが丁度よね!食べれるばぁ食べたらどうなる!お腹が出るろうがねっ!」と、土佐弁で自分に言い聞かせた。
<いいなぁ!山かけ蕎麦!だいいち、これだけ山芋を食べたら、いろんな意味で元気になれそうだ!>
食べているあいだ、思考の中にそんな下ネタも過ぎった。
<うどんの世界も深いけど、蕎麦の世界も深いんだろうなぁ……>
これからも人目を避けてコソコソと蕎麦を食べに出かけよう。
レフトスタンドに座らないと見えないものも世の中にはある。
◆ そば処 㐂太八
高知県南国市岡豊町笠ノ川1052−4(㐂太八の地図)
営業時間/11:30~16:30
定休日/金曜日
駐車場/有