あるところに父と娘がいました。
父は無類のうどん好きで、この日は幼い娘を連れて『たも屋』に来たのでした。
「へっへっへ。何が食べたい?父ちゃんが何でも食べさせてやるぞ。へっへっへ」
「アタチ、釜バターが食べたいっ!」
「おおっ!初めてのたも屋で釜バターとは…!なかなか通なところを攻めるな。さすがはワシの子じゃー。へっへっへ」
父ちゃんは、えらく腰の低い人でした。
「す…すいません!釜バター二つ…!!」
すると店員さんは言いました。
「いまから麺を湯掻きますので、少しお時間よろしいですか?」
「は…はいっ!」
先に会計を済ませるため、娘と二人、セルフレーンを進みます。途中にはトッピングコーナーがありました。
「何かいるか?」たくさんの天ぷら類を前に、父は娘に訊きました。
「ちくわの天ぷら!」
「おお……。この局面でちく天を取るとは、やはりさすがはワシの子…」
将来は宝塚うどん歌劇団かっ…!?
父はすこぶる感動しました。
着席して待っていると、店員さんがうどんを持って来てくれました。
「よし、娘よ。薬味を入れに行くぞ!」
「え??ヤクミって何?」
「ネギとか生姜のことだよ」
「へぇー!父ちゃんは何でも知ってるんだね」
「はっはっはっ!釜玉系には天カスが合うから、忘れずに入れるんだぞっ!」
「うん、わかった!」
父と娘の平和な時間が過ぎてゆきます。
「いいか。この釜バターという奴は一筋縄ではいかないからな。本来は上級者向けのうどんなんだ」
「ええ?」
「でも大丈夫。父ちゃんが食べ方を教えてやるからな」
「わーい、父ちゃんすごーい!」
娘は、わりとしたたかでした。そうやって褒め殺しておけば、父が自分にメロメロになることくらい、すべて計算していました。
そんなこととはつゆ知らず、父は有頂天で娘に食べ方を教えます。
「まずは生卵を潰すんだ。それから卵の横っちょにあるバターを、麺と一緒に巻き込みながら一気に混ぜる」
「こ…こう……?」娘は懸命に箸を使い、麺を混ぜます。
「そうだ。慌てなくてもいいからね。人間というのは慌てたときにミスを犯す生き物だから」
「うんうん」
「混ぜ終わったら、最後にちく天をちょこんと載せるんだぞ」
そのときです。父は気が付きました。
「しまった!醤油とブラックペッパーをかけるのを忘れていた!」
先に一口食べていた娘は言いました。
「どうりで味が薄いと思ったよ…」
「ごめんごめん、父ちゃんが悪かった。慌てたわけでもないのにミスってしまったな。父ちゃんは落ち着いてミスッてしまった」
娘は、やはりしたたかでした。
「落ち着いてミスる父ちゃんも嫌いじゃないよ」すかさずそう言って父ちゃんをそそのかします。
「はっはっは。それじゃあ醤油とブラックペッパーをかけてから、もう一度混ぜるんだ」
「うん、わかった!」
「混ぜ終わったら忘れずに、ちく天をちょこんと載せるんだぞ」
「載せた。今度こそ完成?もう食べていい?」
「いいよ。はい、おあがり。うんといっぱい食べて大きくなるんだよ」
「うんっ!」
娘は父に言われた通り、うんといっぱい食べました。
「あらあら。娘よ。本当に大きくなってきたね…」
娘は見る見る大きくなっていきます。そして天井を突き破りました。
「何もそんなに急いで大きくならなくても……」
父は戸惑いを隠せません。すでに娘は父の身長の十倍を超えました。
父は思いました。
<この程度のことで戸惑っていてはダメだ。ここでドシッとした立派な父親の背中を見せなくては…>
「娘よ。大丈夫だ。父の背中を見て育てば大丈夫だ」
娘は父の背中を見降ろしました。
「父ちゃんの背中が随分小さく見えるわ」したたかな娘もハプニングの連続に正常な思考ができず、つい本音を言ってしまいました。
これまで、したたかな娘に慣れていた父は傷付きました。
「そんなことを言われたら、結構きついな…。だがそもそも…ワシがいっぱい食べて大きくなれなんて言ったばかりにこんなことに…」
人は何にでも慣れていきます。娘はこの状況に慣れ始め、本来のしたたかさを取り戻しました。
「ごめん。父ちゃん。少しばかり大きくなっちゃったけど、これからも仲良く生きて行こう…」
「おおお…娘よ………。やっぱりお前はいい子じゃあ…いい子じゃあ……」
むせび泣く父。大きく育った娘。
親子の愛の熱で、バターも溶けた。