しばらく前のことだが、ピザを食べた。
「ジェノベーゼ」という名のそのピザは、うどんのようにモチモチとした食感のピザだった。
上等な"ふとん"みたいにフンワリとした生地は、きっとパラシュートで舞い降りても、着地の際に足を痛めることはないだろう。
「かなりの衝撃でも吸収してくれるはずだ」。
うどんのようにモチモチとしていて、ふとんみたいにフンワリとしたピザ生地は、私にそのような"確信"をもたらした。
いわば当該ピザは、うどんであり、ふとんなのだ。
うどん、ふとん。うどん、ふとん。とんとんとん。
ラップのように韻を踏むと軽快だ。
ピザの「耳」を愛せるか。
現代の日本社会には、ピザの耳を食べずに残す人が一定数いると言われている。
「食パンの耳を食べない派」と、人物像がかぶる。
ずいぶん前から考察しているのは、人間は年齢と共に食パンの耳が好きになってくるのではないか、ということである。
私は子どもの頃、食パンの耳をあまり食べたくはなかった。
嫌いではない。苦手だったのだ。
しかし加齢と共に、どういうわけか食パンの耳が好きになり、いまでは「耳しかいらない」。「耳こそがパンだ」。そんな心境に陥っている。
同じように、ピザの耳も苦手だったが、いまでは「耳こそがピザだ」言い切れる。
フンワリとした生地にパラシュートで舞い降りた私は、迷わず「耳」を目指すだろう。
耳こそが、ピザなのだ。
むしろピザの耳だけ売って欲しい。
「タコの吸盤だけ食べたい」。
そう思ったことはないだろうか。
「ピザの耳だけ食べたい」という欲求は、「タコの吸盤だけ食べたい」に似ている。
吸盤、あってこそのタコ。
耳、あってこそのピザなのである。
ピザの耳は、タコの吸盤。
そう、うどんがふとんであるように。
ピザの耳は、上等なふとんのように、いつも心を包んでくれる。
耳の内側にあるのは、ピザソースと「人の心」なのかもしれない。
* 画像のピザは、高知の商業施設「ひろめ市場」内、「ピザバル土佐の窯」さんのものです。