台所で納豆をまぜているときに、電話がかかってきた。
私はFM放送にあわせて村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』の第1部のページをめくっていた。
納豆をまぜるにはまずうってつけの小説だった。
電話のベルが聞こえたとき、無視しようかとも思った。
納豆はまぜあがる直前だったし、納豆菌は今まさにねばねば具合をその粘着的ピークに持ちあげようとしていたのだ。
しかしやはり私は納豆をまぜるのをやめ、居間に行って受話器をとった。
新しい草刈りアルバイトのことで知人から電話がかかってきたのかもしれないと思ったからだ。
「今どうせ暇なんだろ?」
唐突に男が言った。
私は人の声色の記憶に自信がないが、それは絶対に聞いたことがない声だった。
「納豆をまぜるのに忙しいんだ。暇じゃない」
「ま・・・待ってくれ・・・!まだ話は終わっていないんだ!」
電話を切ろうとした私の心を見透かすように、低くやわらかく、とらえどころのない声で男は言った。「・・・キミに話があるんだ」
「悪いが、話している時間はない」
私はいつになく寸分もドモらずに、毅然とした態度を取った。「僕は納豆をまぜていると言ったはずだ。忙しいから邪魔しないでくれ」
「それはすまなかった」
男がそう言って苦笑するのが受話器越しにわかった。「けれど、これはキミにとっても悪い話じゃないんだ」
<悪い話じゃないとすれば、何の話だろう・・・>
と私は納豆をまぜながら思った。
「釜揚げうどんを上手に食べる方法、知りたくないか?」
男の一言に、私は目を大きく開いた。
「俺がまるしんで釜揚げうどん相手に苦戦したことを、なぜ知っている・・・!」
「まぁそんなことより・・・一度会おうじゃないか」
「会えば釜揚げの秘技を教えてくれるのか・・・?」
「当然さ・・・そのためにワタシは組織から雇われている」
「組織?」
「秘密の組織だ・・・!」
「ありがちな設定だな・・・」
そう言って私が笑うと、フフッ!と男も笑った。
「とにかく細かいことは気にするな・・・釜揚げの秘技、知りたいんだろ?薊野の"あるぺんはうす"に来れば教えてやる」
"薊野のあるぺんはうす"と聞いて、内心ドキッとしていた。
十代の頃、よく行った店の名だった。
『あるぺんはうす』に着いたのは、昼過ぎ・・・というよりも夕方に近い時間帯だった。
店の入口に立つと、自動ドアはガタガタと音を立てて開く。
電話してきた男の支持通りにきたのだが、男はまだ到着していないようだった。
時間的な要因だろう。
先客は、ずっと奥の席に若いカップルだか夫婦が一組いるのみ。
私は二人から離れた、入口近くの席に腰を下ろした。
<席の配置、こんな感じだったっけ・・・>
十数年ぶりの『あるぺんはうす』
記憶は、まったくと言っていいほど蘇ってこない。
ただ、おそらく、ほぼすべてが以前から変わっていないのではないかとも思えた。
テーブルも椅子も、よい具合に年季が入っている。
<電話の男を待つあいだ、何か食べていても・・・いいかな・・・>
お腹は減っていなかったけれど、ただ座って待つのも退屈だ。
店の女性に注文を伝えて、料理のでき上がりを待つあいだ、店内を見渡す。
「ノスタルジック・・・」と私は小さく呟いた。雰囲気がとてもよい。落ち着ける。
<なんだか時間が止まっているみたいだ・・・>
と思った瞬間、ハッとした。
店内には、年季が入ったアナログ式の時計がたくさん置かれている。
だがどういうわけか、それらすべての時計は、バラバラの時刻を指して止まっている。
<止まっているみたい、じゃない。止まっているんだ・・・>
止まっている時計の意味を考えていると、注文を受けてくれたのと同じ女性店員さんが『ミートスパゲティセット』を持って来てくれた。
<うへぇ!美味しそう・・・!>
四角い皿にミートソーススパゲティとサラダが入っている。スパゲティの上にはスライスされたゆで卵が2枚載り、さらに味噌汁と飲み物が付いている。飲み物は『紅茶』を選択した。
フォークを手に取り、ねじを巻くようにスパゲティを巻く。
「ギィィィィ」と口へ運ぶ。
<具がいっぱい・・・!>
見た目だけではなく実際に美味しかった。ソースに馬力がある。<おや・・・ゆで卵は2枚だけじゃないのかっ・・・!>
麺の上に載っていたゆで卵が、麺の下にも隠されている。
<圧倒的タマゴ攻め・・・!>と私は思った。<ありがたいっ・・・!>
ミートスパゲティセットを食べ終えても、電話の男はまだ来ない。
<ただ待っているのも退屈だから、何かもう一品・・・おかわりしようか・・・>
よし!おかわりだ!
―――数分後。
『あるぺんライス』がやってきた。
店の名を冠したメニュー。
一見、普通のオムライスのようだが、違う。
<これ・・・!すすすすすすす・・・すごい・・・!>
私は、すすすすす、と感動した。<分厚いトンカツが!いっぱい載っている・・・!>
早速スプーンを手に取り、スプーンの先を包んでいる紙ナプキンを外そうとする。
だが外れない。とても固く締めて装着されている。
<簡単には食べさせない仕様・・・そうきたか・・・!>
私は力ずくで紙を外し、荒々しく息を吐きながら『あるぺんライス』と対峙する。
そして恐ろしく低い声で語りかけた。
<お待たせ・・・あるぺんちゃん・・・>
「ギィィィィ」と口へ運ぶ。
<うぉぉぉぉ・・・きたぁぁぁぁぁ・・・あるぺんきたぁぁぁぁぁッッッ・・・!俺はいま!間違いなく・・・!あるぺんライスの黄色いゲレンデの上を・・・猛烈にッ・・・圧倒的に滑っているッッッ・・・!>
『ミートスパゲティセット』と同じように付いていた、サラダと味噌汁も完食。
伝票を手に席を立つ。
結局、男は現れなかった。
<釜揚げの秘技も、教えてもらえないまま・・・か・・・>
レジのほうへ歩く。<でも、まぁいいや・・・スパゲティも、あるぺんライスも・・・あるぺんはうすも満喫できたし・・・>
自分の中で何か納得していた。
十数年ぶりの"あるぺんはうす"で、止まっていた時計のねじを、私は巻いたのだ。
レジで女性店員さんに舌代を払う。
背後でガタガタと自動ドアが開く音がする。
振り向くと黒い服を着た長身の男が、ゆっくりと入ってくるのが見えた。
◆ あるぺんはうす
(高知県高知市薊野西町2-1-11)
営業時間/8:00~24:00
定休日/無
駐車場/有