買い物から帰ってきて冷蔵庫に食料品を詰めこんでいるときに電話のベルが鳴った。
ベルは酷く慎重に鳴っているように私には聞こえた。
プラスチックのパックを半分だけひきはがした納豆をテーブルの上に置いて居間に行き、受話器をとった。
「納豆はもうまぜ終わったかしら?」と女が言った。
「終わったけど・・・」と私は言った。「ど・・・どちら様でしょうか」
「秘密の組織の者です」と女は即座に答えた。
「このあいだは男の人が・・・」と私が『あるぺんはうす』に行く前にかかってきた電話のことを言いかけると、女は明るい口調で言った。
「ああ、あの男のことね!あの人は子持ちでね、まだお子さんが小さいのよ。あの日もアナタに会いに"あるぺんはうす"へ行こうとしていたんだけど、そのときに運悪くお子さんが通う幼稚園から電話がかかってきちゃってね・・・」
「幼稚園から・・・」
「そう。お子さんが幼稚園で熱を出しちゃったみたいなのよ。それで迎えにきてくれって・・・。そんなわけで"あるぺんはうす"に行けなくなっちゃったってわけ」
「なるほど・・・それなら仕方がない・・・」
私はアッサリ納得した。(あのとき帰り際に入ってきた男は、電話してきた"謎の男"ではなく、まったく関係ないただの通りすがりの男性客だった)
「そんなわけであの男も子守に忙しいから、今回からアナタの担当はアタシがすることになったわ。よろしくね!」
「えっ・・・担当?」
「アナタに釜揚げうどんの上手な食べ方を教える・・・担当」女は相変わらず明るい口調で淡々と話す。「もちろん、タダで教えるわけにはいかないわ。アナタにはコチラの指示通りに行動してもらう必要がある」
「くっ・・・」私は完全に弱者だった。「釜揚げの上手な食べ方を教えてもらわないことには、死んでも死に切れない・・・わかった・・・その条件を受け入れるよ・・・」
「戌年のアナタならきっと言うことを聞いてくれると信じてたけど、思った通りでよかったわ」
女の声が心なしか、さっきより弾んでいた。「では早速、今回のミッションを発表するわね!」
「ぬぬっ・・・!」
今回のミッション!
『中華そば・丸福』に潜入せよ!!
謎の女がどうして「丸福に行け」と言ったのか、私にはわからない。
わからなくても、黙って女の言うことに従うしかなかった。
<釜揚げうどんの上手な食べ方を教えてもらうためだ・・・仕方がない・・・>
自分にそう言い聞かせながら、夜の高知市「天神橋商店街」を歩く。
やがて以前から場所は把握していた『中華そば・丸福』に達し、店先から中の様子を窺う。
<さすがは人気店・・・結構入ってるなぁ・・・>
入店して、一番奥のテーブル席に腰を下ろす。
それはわずかな空席の一つだった。
カウンターの上部に紙が貼られていて、メニューが書いてある。
私はその文字列を凝視したまま数秒間、固まった。
<丸福チャーシューメン・・・>
店の名を冠したメニュー名に"チャーシュー"という圧倒的な響き。
「すすすすすす・・・!」
私は店のオバチャンに視線を向けて挙手した。「すすす・・・すいません!」
その光景は傍から見ると、私がオバチャンに謝っているように見えたかもしれない。
だがもちろん謝っているのではない。オバチャンを呼んでいるのだ。
少しだけ、にじり寄ってきたオバチャンに言う。
「丸福チャーシューメンを・・・!」
注文してから、秘密の組織のことを、ぼんやり考えていた。
<謎の男・・・謎の女・・・組織の黒幕とは・・・>
名探偵コナンみたいな設定だ、とは絶対に口にしてはいけない空気が漂っている。
<指示通りにすれば、釜揚げうどんの上手な食べ方を教える、謎の女はそんな風に言ってたよな・・・>
私は謎の組織に従うしかない。
だって釜揚げを・・・上手に食べたいんだもん・・・。
それから人差し指を基準にして、水が入ったグラスの直径を測ったりしていると、オバチャンが『丸福チャーシューメン』を運んできてくれた。
オバチャンは器をテーブルに置き去る。
私は口を開けて、目を見開いた。
世界を席巻する・・・!
肉・・・!肉・・・!肉・・・!
圧倒的・・・!
肉の攻撃力・・・!
<円盤みたいになってる・・・!
これ・・・犬がいるところで投げちゃダメ・・・!
追いかけて行くよ・・・!犬が追いかけて行っちゃうって・・・!>
感動していると、オバチャンがもう1杯持ってきてくれた。
やってきたのは『モヤシソバ』だった。
<おおぉっ・・・!>と私は歓声を挙げる。<モヤシソバという名の通り、モヤシいっぱいだぁー!>
タンメンのような白みがかったスープが入った『丸福チャーシューメン』に対して、褐色のスープが入った『モヤシソバ』は、あんかけ風にトロミがついている。
そして両者は麺がまったく違う。
『丸福チャーシューメン』の麺は太く、
『モヤシソバ』の麺は細い。
<太麺の食べ応え・・・!細麺の喉越し・・・!>
ぬぅぅ、と私は低く唸った。<両方イイッ!ありがたいっ・・・!>
さらに『餃子』も来ちゃう。
<うほっ・・・!いい餃子・・・!>
組織から指示されたミッションをクリアして、席を立つ。
いつの間にか満席になった店内。
オバチャンに舌代を払って、カウンターに座る人とテーブル席に座る人の、背中と背中のあいだを通って出口を目指す。
湯気が昇る寸胴の前で、寡黙な雰囲気の店主が長い箸を使って、黙々と麺を湯掻いている。
その後姿に会釈して退出した。
◆ 中華そば 丸福
(高知県高知市本町2-3-23)
営業時間/11:30~15:00、17:30~19:50
定休日/日曜日
駐車場/無(少し歩いたところに1時間100円のコインPあり)