鮮魚店に行ったことがあるだろうか。私はほとんどない。
ウチのオバ=ア(祖母)は商店街の魚屋で頻繁に魚を購入するが、日頃、私が魚を買うのは、スーパーマーケットの鮮魚コーナーだ。
だが、前々から夢に見ていた……。
いつか、鮮魚店に行ってみたい。
鮮魚店に「刺身」を買いに行く。
しかし魚屋に行くのは恐ろしかった。完全なるコミュ障である自分が、魚屋さんと円滑に会話をしたのち、無事に魚を購入できるとは到底思えなかった。
心境の変化は、ある日突然起きた。
いつものように、鮮魚店のある鄙びた商店街を車で通りがかった。
「きょうなら、あの魚屋に行けるかもしれない」唐突にそう思ったのだ。
商店街を貫く道路を走る、車の影はまばら。
「道が空いているから行けるかもしれない」
もちろん道路が少々混雑していても、魚屋に車をとめることは、技術的にはそれほど難しくない。けれども「いまなら落ち着いた心境で、魚屋に行けるかもしれない」そんな気がした。
私は魚屋に隣接する駐車場に向けて、ハンドルを切った。すると、そこがまるで通い慣れた店であるかのように、車は滑らかなラインを描いてピタリと停止した。
「大丈夫だろうか……」
少し緊張しながら車を降りて、店舗へ歩く。
店に着いた。
初老の男性が店頭のショーケースを洗浄している。
私に気付くと、男性は「いらっしゃい」と声をかけてくれた。店主さんだ。じつは店先の道路を車で通るたびに、いつもお見かけしていて大体は把握はしていた。
けれども車窓から見慣れたショーケースは、いままさに店主さんの手によって洗浄されている。
"しまった。来る時間が遅すぎたか……"。
ただ店の営業時間は午後7時までと知っている。気持ちの悪い話、午後7時頃に店を閉めている姿を、何年ものあいだ頻繁に目撃してきたからだ。
そのとき時刻は午後5時。閉店にはまだ早い。
"もしかして、売切れかな……"。
一寸、不安に駆られたが、奥にショーケースが見えた。数種類の生魚が入っている。
「大丈夫そうだ……」
しかしどんな魚がショーケースに入っているのか、そこまでは見えない。とりあえず、いま一番食べたい魚の名前をあげた。
「ぶ、ブリ、ないですか?」
すると店主さん。
「ブリはいま脂がのっちゃあせんき、ないねぇ」土佐弁で答えてくれる。
"5月はブリの時期じゃないんだ。考えてみれば「寒ブリ」とか、夏のブリは聞くけれど、春のブリは聞かないもんな……"。
残念。だが勉強になった。
「ブリ、いま脂のってないがですか……」私がそう言うと店主さん。
「そうよ。それやったら"ネイリ"とかどうやろうね」
ネイリ?
高知ではよく聞く名の魚だが、調べてみるとそれは「カンパチ」の幼魚をさす高知独特の呼称らしい。
「じゃあ、それにします」と言った直後、ネイリの隣に「キンメダイ」がいるのが見えて、付け加えた。
「あっ!キンメダイもお願いします!」内心感激。キンメダイはすこぶる好きな魚だ。
店主さんがショーケースを開けようとしたとき、店の奥から女性が出てくる。どうやら女将さんらしい。
一部始終を聞いていたようで「ほいたら、ネイリはこの、脂がのったがにしちょくねぇ」と言ってショーケースから出した、生の「ネイリ」を見せてくれる。
おお……。心の中から歓声がもれた。
「ありがとうございます……!」
ビニール袋に購入した鮮魚を入れてくれる。
その袋の中に、魚が温まらないようにと、小さなビニール袋に包んだ氷を入れてくれる女将さん。魚屋では当たり前のことかもしれないけれど、その心遣いがありがたい。
ちなみに、ネイリ、キンメダイ、共に1人前(8切れ分ほど)で400円。合計800円の買い物だった。
家に持ち帰った、刺身。
▲ 手前が「キンメダイ」、奥が「ネイリ」。
「本当に脂がのっていて、美味しい……!」
何せ感動したのが、身のハリ。
「アゴを押し返す弾力!ピッチピチ!」
うどんも魚も、うまいものは弾力が違うのだ。
魚屋さんだと、スーパーみたいにじっくり魚を選べない感じがして、これまで敬遠していた部分もあったけれど、実際に行ってみるとそんなことはない。
所望したブリがないとなると、ネイリ(カンパチ)はどうかと、すぐさまブリと同じ白身魚を薦めていただけたりして、非常に効率的に買い物ができる。
薦めてくれなかったら、優柔不断な私の場合、ではどうしようかと数分間は無駄に悩んでいたところだ。
ただコミュ力は、やはり必要。
魚屋では、コミュできる奴が有利!
「俺もっと、がんばろう。返す刀で『肉屋さん』にも行ってみたいな……」
竜一、商店街でのコミュ力増進トレーニングは、まだ始まったばかり……。